自分の哲学を貫く人は、
必ずどこかで困難の波に飲まれている。
私もそうだった。
感情的になったりすることはしょっちゅうだし、そもそもの問題の原因を万人の意見とすり合わせることで、嫌われないようにしておこう、というフィルターがかかることもあった。
では、それはなぜなのか?
めんどくさがりの私は、その問題を早く解決させることで心の負担を減らしたいと思うからだ。つまりは、問題の本質と向き合うどころか一目散に逃げているのである。
さて、私は最近、夫が始めた新しい取り組みに対して、「少し違うんじゃないかな?」と思っても黙っていることにしている。
「あっ、そのやり方、それだと、そこうまくいかないんじゃないかな?」
という予感があっても、私はひたすら黙って見守るという行動を選択している。
それは、夫のありのままでそのコミュニティと関わりあうことでどんな化学反応が生まれるのか?という、真面目な興味と、私の意見を反映させずに突き進む、それがOttoなのだよ、という親心のようなものがある。
夫が責任を持ってやる以上、進め方を決められるのはOttoのみだと信じている。
そしてたった今、私が抱いていた、嫌な予感は的中してしまった。
一部の人から否定的な意見をもらったようで、せっかく準備した夕食を断るくらい彼は落胆している。
彼の決めたこと、彼がしたかったこと。
否定的な意見は短期的に見るとたしかに血が上る。
しかし長期的に見れば、本音で語ってくれる人を大切にするのは非常に効果的だし、大事なのは落胆ではなく5年後、10年後につなげる力だと感じている。
「夫よ、自分のやり方を信じて突き進むときは、とんでもなく風当たりが強い時があって然るべきなんだぞ!」
その風当たりは、あなたが予期しなかったくらい強い時もあるだろうし、あなたには短期的にはダメージとなるであろうと覚悟している。
しかし、次に同じ問題に直面したときは、あなたはまた一段と、確実に成長しているはずだから、まぁ今は珍しく羽を休めて休養すればいい。
新しい取り組みに関しては、好きにやればいい。
私だってそれが原因でマイルドな好奇の目で晒されるくらいは、余裕だと感じる図太さくらいは持っている。
大丈夫だ、突き進むのだ!
5年後にまた振り返ってみようね!