治らないクセ、0か100か。

わたしには、幼い頃から染み付いた非常に厄介なクセがある。

それは「物事を0か100か」で見てしまうという、とても厄介なクセだ。

言うなれば、私は人によく思われたいスイッチが容易に入りやすく、そのくせその人から「凄い!」と思われなくなったら、その環境(人)から一目散に逃げてしまう、大変困った習慣があるのだ。

無論、父と母にもこの「0・100フィルター」をかけているため

色々と都合が悪い時は、誤魔化してしまうこともある。

ただ、この誤魔化しがのちにとんでもない罪悪感となって、とある事象では、未だに胸の中にフラッシュバックし

ゾワゾワした気持ちで、私の全感情を支配してしまうことがある。

さて、では今の旦那、すなわちOttoに対してはどうだったのかというと、それはもう巨大なフィルターで

出会った当時は、彼に好かれようと必死だったし、

なんとか振られまいと頑張っていたこともある。

しかし、だ

ある出来事をきっかけに私は彼からの信頼をすべて失うことになるのだった。

それが困ったことに私の友人や

知り合いすべてに対するこの「0か100かフィルター」の

チリツモの結果が、関係しており

大事な夫である彼を私から遠ざける信頼失墜を生んでしまったのである。

「よく思われたい」

そんなちっぽけなプライド、早々に棄てるべきだった。

いつからだろう。

わたしには「お姉ちゃんなんだから」という

“長女の呪い”がついて回っているように感じることがある。

幼い頃からのこの”お姉ちゃんの呪い”は、

弟が生まれた2歳の時から

一族の共通認識”Kowen=お姉ちゃん”になっていたに違いない。

思えば、いとこの中でも一番はじめに”お姉ちゃん”になった私は、その期待に一生懸命応えようとしていたはずだ。

小さな私の脳みそは、「頑張って周りの人に嫌われまい」ときっと必死だったに違いない。

4歳の時だろうか、祖母に言われたことがある

「Kowenは、お姉ちゃんなんだから、みんなの布団を敷かなくてはいけないよ」

祖母宅でのこのやりとりは、今でも鮮明に覚えているが、あれから三十数年経った今でも、この言いつけの「100」の部分を守ろうと必死なんだから、本当に困ったモノだ、笑。

100%のお姉ちゃん…

「お姉ちゃんなんだから、ちゃんとしなきゃいけない」

「お姉ちゃんなんだから、わがまま言ってはいけない」

「お姉ちゃんなんだから、お手伝いしなきゃいけない」

あげればキリがないが、3人兄弟の長女として、

それはそれは、あるべき姿を押し付けられ、それがいつしか「私は失敗してはいけない」という考えの元凶になってしまったように思う。

つまり、

「失敗したら(0になったら)私はオシマイ。」

全く、こんな呪い、

大人になった私が

4歳の私に会うことが出来たら

爆速で解いてやるのに…。

とりあえず、言わせて欲しい。

「もう、頑張らなくていいんだよ」

と。

「お姉ちゃんも、失敗します」

「お姉ちゃんは、出来ないことだらけです」

「お姉ちゃんは失敗することで、みんなに嫌われるのが怖かった」

だから、今日から少しずつ…

Ottoと一緒に試してみたいことがある。

それは、0でもなく、

100でもなく、

50、という場所を目指して漂ってみる、ということ。

すなわち”中庸”を体現できるようにほどほどを、目指すのです。

「中庸」という。この言葉を教えてくれたのが、

今の旦那(Otto)なんだけどね。

ありがとう、

この私の手を引っ張り上げ、失敗しても見捨てずにそばにいてくれた、

優しくて、強いあなたのことを

私は一生忘れないよ。



万人に好かれる方法などない。

自分の哲学を貫く人は、

必ずどこかで困難の波に飲まれている。

私もそうだった。

感情的になったりすることはしょっちゅうだし、そもそもの問題の原因を万人の意見とすり合わせることで、嫌われないようにしておこう、というフィルターがかかることもあった。

では、それはなぜなのか?

めんどくさがりの私は、その問題を早く解決させることで心の負担を減らしたいと思うからだ。つまりは、問題の本質と向き合うどころか一目散に逃げているのである。

さて、私は最近、夫が始めた新しい取り組みに対して、「少し違うんじゃないかな?」と思っても黙っていることにしている。

「あっ、そのやり方、それだと、そこうまくいかないんじゃないかな?」

という予感があっても、私はひたすら黙って見守るという行動を選択している。

それは、夫のありのままでそのコミュニティと関わりあうことでどんな化学反応が生まれるのか?という、真面目な興味と、私の意見を反映させずに突き進む、それがOttoなのだよ、という親心のようなものがある。

夫が責任を持ってやる以上、進め方を決められるのはOttoのみだと信じている。

そしてたった今、私が抱いていた、嫌な予感は的中してしまった。

一部の人から否定的な意見をもらったようで、せっかく準備した夕食を断るくらい彼は落胆している。

彼の決めたこと、彼がしたかったこと。

否定的な意見は短期的に見るとたしかに血が上る。

しかし長期的に見れば、本音で語ってくれる人を大切にするのは非常に効果的だし、大事なのは落胆ではなく5年後、10年後につなげる力だと感じている。

「夫よ、自分のやり方を信じて突き進むときは、とんでもなく風当たりが強い時があって然るべきなんだぞ!」

その風当たりは、あなたが予期しなかったくらい強い時もあるだろうし、あなたには短期的にはダメージとなるであろうと覚悟している。

しかし、次に同じ問題に直面したときは、あなたはまた一段と、確実に成長しているはずだから、まぁ今は珍しく羽を休めて休養すればいい。

新しい取り組みに関しては、好きにやればいい。

私だってそれが原因でマイルドな好奇の目で晒されるくらいは、余裕だと感じる図太さくらいは持っている。

大丈夫だ、突き進むのだ!

5年後にまた振り返ってみようね!



おかしな日本語。

私は10年以上も、海外と日本を行き来する仕事をしている。

なので今でも、日本語の語彙力が非常に怪しく、Ottoから良く指摘される。

そうなるとこのお休みの時期には、美しい日本語を再度学ぶ機会なはずなのだが、

この度、やはりカチコチな頭をほぐすため、中検とTOEICの勉強をスタートさせようかなと思う。

中検は、リスニングが満点だったのにリーディングがベラボーに出来ず3級を落としてしまった過去があるので、ここは育児の傍ら、頑張って絶対に合格したいところである。

また、TOEICに関しても語彙力がかなり問われるので初心に帰って、地道な勉強を続けて行こうと感じる。

さて、結果はいかに。

7月受験を目指すのでなかなか時間がない!汗



アイデンティティとは何か?

仕事人間だった私にとって、結婚はまさしく私の価値観を大きく変えたものの一つであり、まさにパラダイムシフトであったと言っても過言ではない。

まず、関東の下の下の大学、通称Fラン大学を出た私にとって、Ottoの凄まじい学問に対する知識と、どの分野でも専門性を持って答えてくる教養はまさに、Fランにとってはキャパオーバーすぎて、頭に円◯脱毛症ができるんじゃないかというくらい凄まじい経験をさせてもらってます、笑。

婚姻関係が続いている今も、果てしない教養と、

まるで大学院の教授と生徒かのような、側から見たら「なかなかエグい」この環境は、群を抜いてユニークだと言える。

すなわち、この3年間という結婚してからの期間、まさに3分の2以上をそんな西の雄である某K都大学卒のOttoと過ごしている訳なんだけども、間違いなく私の教養も、知れーっとレベルアップしていることと思う。

なぜそう思うか?

それは、今まで考えもしなかったことについて考えざるを得ないから。

多分、この世の中の何%がそんな経験をしているかは定かではないが、まずは独身時代の私についてのご紹介。

まず、私は超がつくほどズボラでめんどくさがりであり、

人の話を聞けない(非常に恥ずかしいけれど断言します)

そして、自己都合で物事を解釈するので、結局は何か問題があったとしても、人に責任転嫁をしてしまい、

自分での失敗談や経験が乏しいままで育ってしまった(我ながらボロクソに自分を分析してみる、笑)人間であるのかなと感じることがあります。

つまりは、そんな私を拾ってくれたありがたい会社で仕事をすることが生き甲斐だったけれど、

入社して10年目で結婚して、子供を授かり、産休・育休期間に突入し、

今に至る訳だが、

その産休・育休の間、私は、さらなるメンタルの問題が発生し、

追い込まれる事態に。

それは、産休・育休中は仕事をしていないから、自分でお金を生み出せず、

心置きなく好きなものを買うこともできず、

しまいには、「果たして今の自分には価値があるのだろうか」という

キッツイ自問自答を暇さえあれば繰り返してしまう、

不毛な脳みそ絶賛覚醒中と相なってしまう。

そこに時にはホルモンバランス様も参戦して、

人様のメンタルを色々とみるにたえない側へとシフトしてしまうのである。

ぶっちゃけ、そこまで、自分を卑下するか?ということだが、

これもそれも全て『伸びしろ』ということでまとめておこう。

無論、脳筋という言葉を最近覚えて使いまくっているのだが、Fランでも、体育会を誇りに思っていた私はそれに該当するかも知れない(爆)

さて、Ottoといると色々と良い気づきも、悪い気づきも含めてあるので、やぁれ自分の見たくない側面をとても目にすることになるのだが、少し冷静に考えてこんな思いしてまで夫婦やってる家庭ってどれくらいいるのかな?ということで、多分私はひと昔前の時代の主婦を体感しているのだ。

これは、Ottoの悪口ではなく、ユニークを考えるという意味でアウトプットしている。

家庭で過ごしていることはまさに、一体全体精神崩壊したっておかしくないレベルなのに、今は、仕事をしたいという気持ちをグッと抑えて毎日を一生懸命に生きてるのだ。

この記事を書いている間に息子はハイハイをしながらいきんでいたので、これぞ育児の醍醐味とばかりに2回ほどオムツを替えている。

息子と過ごす時間は、何より楽しい。

コロナ禍で子供と、遊ぶ場所やお友達作りが限られている中、Ottoのサポートのおかげで息子にはさまざまな機会を与えることが出来ている。

それは、習い事にカテゴライズされるかも知れないが、私は東海圏のお受験熱の高さにも飲み込まれそうで、がしかし、目指すならてっぺんやろがい!と0歳の息子を前にして息巻いている、笑。

どうせなら、この権力まみれの世の中を変えるくらいの器にはなってほしい(なんの話?笑)

私は海外に滞在することを主とする仕事についており、この育児休養が開ければ無論海外に放り出される可能性もなきしもあらずなのだが、今はコロナが猛威を奮っている最中、そして、育休や息子との時間のあり方も考えていきたいと感じており、大好きな仕事を前に少しためらっている自分もいる。

一番は、多忙を極めるOttoが一人で家事や育児をこなせないだろうという

決めつけ事実が私を仕事復帰から遠のかせようとしているのである。

迷える私のアイデンティティ、贅沢は言わない。

意外な形でもいい、仕事復帰した暁にはどうかアイデンティティの情熱の火を再度燃やしてくれますように。

Kowen

上機嫌は職務です。

今月のテーマは、上機嫌。

わたしは、占いが好きで毎日のように自分の運勢を調べてしまうのだが、

ゲッターズ飯田さんの占いの本には「今月の開運3箇条」というものがある。

毎月色々と内容が変わるのだが、「銀の鳳凰」という私のタイプの今月の3箇条は

①中旬までは積極的に行動する

②明るい感じの服を着る

③周囲からの協力や支えに感謝する

というものだった。

しかし、今月がもう終わりを迎えようとしているにも関わらず、どれもできていないことに気づく(笑)。

さて、この3箇条は、ゲッターズ飯田さんからのありがたい助言であるが、自身では今月、どんなことを気をつけて過ごしていきたいか?を考えてみたい。

まずそれをまとめていく前に、

私の性格上の厄介ごとというか、困りごとを書き留めておきたい。

私はOttoから不意な瞬間に「どうしてそんなに不機嫌なのか?」と質問されることがとても多い。

非常に良くないのは、自分自身ではさほど不機嫌だと思っていないことだ。

それを毎朝、私がいかに不機嫌であるかを説明してくるOttoもなかなかだが、ここは素直に受け止めて原因を考えていきたいと思う。

すると、自分の人生を振り返った時にあることに気づいたのだ。

それは、私自身の父親についてだ。

私は、父親に対して「いつもどうしてこんなにイライラしているんだろう…」と感じることが、ものすごく多かった。

毎朝のように彼は、一人で慌てて仕事に行く準備をし、一人で周囲を不安にさせるような言葉を口にしながら仕事に向かうのだが、平日のこんな光景は非常に不愉快な時間だったし、ある種病的な光景に嫌気がさしていた。

そして何度も「そういう余裕のない態度は非常に不愉快だからやめて欲しい」

と父親に指摘したことがある。

しかし、その後も直るばかりか、その行動が、繰り返されること30年余(笑)。

今は私も、結婚し、父親とは、別々に住んでいるので半ば諦めたようになっている。

また本人も、もういい歳なので、父と同居する母親がうまくかわしているから、それでいいかと感じている。

そうだな、父親本人は、自覚がないままそういう態度をとっていたのだと思う。

私は父親の「何気ない時も常に余裕がなく、周りに配慮できない姿」を見て、

こんな大人にだけはなりたくないなと非常に強く思っていた。

しかし、あれから何年経っただろうか、

自分自身が結婚し、少なからず誰かと一緒に生活をすることになる訳だが、その同居人筆頭者であるOttoを通して、自分自身が周囲を巻き込んで、どれだけの不機嫌オーラを放出してるのかを考えさせられている。

そして、それは、少なからず息子にも、

嫌な思いをさせてしまっていることに気づくのであった。

しかし、毎回毎回意図していないところの不機嫌さを

Ottoからくどくどと注意されるのも、結構ストレスがかかる。

ならば、どうすればいいか。

いっそのこと、今月、自分自身が意識する事項として念頭に置き、具体的な行動を交えて、自身の感情と行動を観察していくべきだと感じたわけだ。

仕事を頑張っているOttoのためにも、愛され妻とやらになるためにも賢く自分を研究し、シンプルに答えを見つけて実践することができたら今月は、成功したかなと思う。

答えは後ほど・・・

とにかく、上機嫌でいれば、人生は好転することはなんとなくわかっているので、そこまで持っていけるように、実践あるのみだ。

新垣結衣さんと星野源さんの結婚について。

新垣結衣さんと、星野源さんのおめでたいニュースが入ってきた。

私はリアルタイムで、2人が出演していたテレビドラマを見ていたわけではないけれど、2〜3話だけを途切れ途切れみていたことがあり、その劇中のこの2人の纏う空気にはすごく魅力的なものがあったのを覚えている。

これは、先に見る松嶋菜々子さんと反町隆史さんのドラマ共演後の結婚に似ているなと思った。それは、GTOというドラマの一番最後のシーンで反町さんと松嶋菜々子さんのただならぬ親密なオーラと二人の自然体な演技が高視聴率へと結びついていた記憶があるからだ。

松嶋菜々子さんと言えば2000年に公開されたTVドラマ「やまとなでしこ」が大好きだった。

彼女がCA役で出演し、大ヒットとなったドラマだったが、

このドラマを見て「CAになりたい」という思いがより強固なものになったのは、

言うまでもない。

このドラマの中で、主人公に好意を寄せている男性に、数学に長けていた欧介さん(堤真一さん)と分野は違えど、私のOtto(学部時代は理学部、大学院で医学研究科卒)の数奇な運命と重なることとなったこのドラマは、私の脳裏に焼き付いて離れない。

さて、新垣結衣さんも星野源さんも、「逃げるは恥だが役に立つ」というドラマのSP版以降から交際を開始したらしく、こちらも蓋を開ければ交際期間が短いことが伺える。

私自身も、Ottoとは、出会って1ヶ月というものすごい熱量と電光石火の火花のごとく結婚し、まもなく3年が過ぎようとしているが、この手の結婚生活にはリスクもあることを知る機会が増えたように思う。

それは、また次の機会に話すとして・・・。

今回、こんなに洗練されたビッグカップルが誕生したことで、

世の中の女性たちが、次は私の番!!とばかりに息を巻いていることと思う。

結婚は、素晴らしい。これは、何度Ottoと喧嘩しても、熱りが覚めると脳裏に浮かぶ照れ臭い本心なのかも知れない。

実は私は、東京で何度も生涯独身の覚悟をしていた。

それは、実に婚礼適齢期から50代までの女性の5人に1人が未婚である東京にいることは、私にとって非常に居心地がよかったからだ。

ULP結婚相談所公式サイトはこちら

しかし、ひょんなことから、ウサインボルト並みに最速で結婚へと踏み切った私は、

いきなり人妻となり、求められるものや、自身が置かれている環境が変わり、非常に戸惑ったことも事実である。

それまでは、仕事が恋人のようなモノだったので、仕事にやりがいを感じていたし、

仕事の中ではやることをやれば一定に評価されていたけれど、結婚となるとそうはいかない。

トライ&エラーをシャワーのように浴びなくてはならず、

お互いの価値観が有る程度分かり合えないとキツいという実感もある。

全然上手くいかない、全然楽しくない、自分のペースで生活できない。

そんなことが初めは続いていたけれど、それはそれは、Ottoからのアドバイス(という名の喧嘩?討論?)が功を奏して私たちは、辛うじて(笑)夫婦関係を続けている。

キラキラな世界でなくても、新しい自分に出会えた瞬間、その感覚は家庭を築くという新しいステージに自分を置くことができた喜びに変わるだろう。

上手くいかなくてもいい。

つまづいたっていい。

それが、現段階の結論だ。

全然、美しくもなければ、ひたすらの泥試合の日々をOttoと過ごすこともある。

だけど、すごく不思議なことに結婚したことに対して後悔は、全くない。

むしろ、Ottoと結婚したことで私の思考の領域がかなり広くなったことを感じている。

私の受け入れることのできる幅が大幅に増したとも感じている。

わたしは独身は否定しないし(羨ましいとも思うときすらある)もし結婚していなかったらそれはそれは、独身の素晴らしさを世間に説く役目を担っていたかもしれない。

しかし、しかしだ….

私がしたこの結婚は、嫌なことがあっても簡単には逃げられないし、それは自分にとってはストレスがかかったり、周囲には恥を晒すことになるかも知れないが「(自己研鑽と自己改革に大いに)役に立っている!」と自負できる。

自分以外の人との関わりからしか、自己成長のヒントは生まれないのだと思う。

私は今、もっと前向きに自分の人生と関わるきっかけをもらったように思う。

あの時、一歩踏み出した自分と、破天荒な結婚を受け入れてくれた両親、

そして、人生のステージの二人三脚の紐をようやく結び終えたかな?くらいの位置にいるOttoさんには、感謝感謝である。

走り出すには、まだまだ少しの休養が必要かも知れない。

家族とは何か壮大なテーマに向けてスタートを切る第二章はいつ訪れてもおかしくはない。

父の日に生まれた私。

遠い遠い昭和のある日に父の日の午前中に予定日より一週間早く生まれた女の子がいました。

彼女は、不器用な父と愛情と慈愛に満ち溢れた母親の一番最初の子供として、

大事に育てられ

時には、屈折しながらもよく笑い、良くしゃべり、ひょんなことから

2018年にジャスティンビーバーと同じ結婚記念日に結婚し、

今は一児の母としてもがいているそうです。

そうです、私です。

さて、話は戻り、

遠い遠いあの年の父の日、父は私を最高の贈り物だと思ったでしょうか?

2460グラムという人生で最も軽かったあの頃・・・。

私は明らかに両親の宝物だったはずです。

まぁ、現在のところそんなことは、恥ずかしくて聞けませんが、そんなこんなで父の日はネクタイを贈るととっても喜ばれます。

そのネクタイが思いがたくさん込められて作られたものなら、なおいいですよね。。。

みなさんも大切な人にネクタイを贈ってはいかがでしょうか?

私のOttoは、仕事柄ノーネクタイなので、将来息子に(着けてくれるかわからないけど)買う喜びを想像しながら色々選んでみたいなと思います。

父の日、Ottoは父子家庭で育っていますので、義父にはとびきりなものをプレゼントできたらなと思います。

今日も一日感謝を忘れずに。

Kowen

自己肯定感の正体を懐疑的に見る。

それが、いかに間違っていたかを結婚して半年くらいで気付いたわけです。

その当時の私にとって、結婚とはステータスのようなものだったのかも知れないけど、実際はそんなに生優しいものではありませんでした。

そんな、ステータスマリッジ的、私の考えと、めちゃくちゃぶつかったのが、Ottoの思想でしたが、そのおかげで、びっくりするくらい私も夫婦に対する考え方が変わりました。

今は、Ottoと息子の3人で、生活することが何より愉しい。

なぁんも誇れるものもないし、めちゃくちゃな喧嘩もするけど、夫婦として毎日新しいことが起きることを、かなり肯定的に受け止めて”案外、これでいいのかも”と生きている自分がいます。

話は変わるのですが、Ottoの言うことはなかなか素直に聞けない私ですが、最近聴き始めたSpotifyのポッドキャスト、

コテンラジオというプログラムで、パーソナリティの深井龍之介さんがいう言葉はそれはそれは真剣に聞いて意図を掴んで自分に落とし込もうと必死なわけであります。

例えば…

“人間は、生きているだけで99%完成されていて、残りの1%で何か好きなことに情熱を注げば良い”という言葉。

この言葉を聞いて思ったのが、

普段なんて自分は、誰かや何かと比べて物事を見ているんだろう、ということでした。

あれも出来てない、これがダメだった。

それがうまくいかない…と投げ出すことも多かったですが、この言葉を聞いて自分に対する赦しの感性も培われた気がします。

ようするに、この一言に全てが乗っかっています。

なので私はいかに妄想の世界で悩み苦しんでいたんだ!と目が覚めた気がしました。

この言葉を落ち着いた口調で、しかも力強くおっしゃる深井さん。

わたしには、それが、すごく腑に落ちました。

ないものねだりって時間が無駄だったりしますもんね。

このコテンラジオ、Spotifyの広告で知って聴き始めました。

わたし自身、歴史なんて、本当に苦手な教科だったけど

このプログラムは、歴史上の人物のパーソナリティまで深く掘り下げてくれるこの番組で、ハマってしまいました。

コテンラジオを聴くとその時間だけ、

目つきが変わったように集中したりする自分がいます。

良い効果だな。

自己肯定感よりも、自分を好きになること。

誰かと比べないこと。

難しい時代に生きる私たちだからこそ、大切にしたいですよね。

おはようございます。

私が、朝起きてするルーティンと言えば、

Otto a.k.a 偉い人のコーヒーを入れること。

Ottoよりも先に起きていることの多い、ちびギャングは私に抱かれて階段を降りていく。

「ヨイショっと」と生まれたばかりの体重が既に懐かしい領域にまで達している

息子は脱力したまま、私に身を委ね、そこで毎朝決まって口をぷしゅっととんがらせ、

ふぅーっと息を吐く。

なんとも愛おしい時間が流れている。

彼は、眠い目をちいちゃな手でこすりながら、

移動先の1階下のプレイヤードへと運ばれるのだが、

そこで敷いてあるふかふかマットに横たわり再びカワイイ眠りにつく。

そのときまだOttoは、さっきまで私たちの可愛い息子が間でちょんと寝ていたベッドで寝息を立てている。

この全てが3年前にはなかった光景。

人生は、本当に不思議だ。

結婚することは難しいことだと思っていた。

私には無理だと決め込んでいた。

だけど私には、

そんな絶望的な感情を抱いていた3年前には

想像をし得なかった世界の中心で「コーヒー淹れるのめんどくせぇー」と

文句を垂れているのである。

だから、わたしは噛み締めないといけない。

これがどれだけ幸せなことか、そして、どれだけ恵まれていることか。

昨日から、久しぶりに思いを文章にして

アウトプットしているのだが、その瞬間から脳内が整理されているように感じる。

某旧帝大で医学系の研究をしていたOttoの教養は、とてつもなく深い。

私が彼と結婚したのは、よっぽどの縁があったから

最近は、そう思っている。

それには訳があるのだが….

家族のメンバー総出で横たわることのできる無印良品のダブルベッドには、

その上方にカレンダーが貼ってある。

薬師寺の僧侶、大谷徹奘さんのありがたいお言葉が1日1日に

綴られている日めくりカレンダーだ。

その『8日』のページには、

こう書いてある。

「よっぽどの縁があっての あなたと私」と。

その言葉を初めて見た時、

私の心の奥深くにまでこの言葉の真髄が染み込んでいくのを感じた。

もちろんこの3年間での夫婦の出来事を脳内想起してビビビッときたもんだから、

ついつい手に取り購入してしまった。

そして、毎日目につく場所、ということでベッドの部屋へと飾られたわけだ。

我が家は無宗教であるが、日本古来の考え方は大切にしていてもいいかなと思っている。

さて、最近は毎朝ルーティンであるコーヒーのお供に1週間前からMCTオイルとグラスフェッドバターを入れている。

コロナ禍の運動不足と去年出産したことで、見るに耐えかねなくなった体型の私が、少しずつ”自己肯定感”というそれを取り戻せるまでに回復したような気がするのは、一週間で体重が0.8kg減ったことに限らず、ストレスが減ったこと、が挙げられる。

MCTオイルとグラスフェッドバター入りのコーヒーを”完全無欠コーヒー”と言うらしいが、そんな末恐ろしい名乗り方をされたら、自己肯定感が低すぎて地底を突き抜け、ブラジル人と握手、ならぬ肘タッチしてる私には眩しすぎてもう、飲むのをためらうくらいである。笑

健康であることは、尊くて美しい。

明日からの1週間も、わたしの何倍も気高く美しい”完全無欠コーヒー”にお世話になることにしよう。

GINA(ジーナ)

初めまして。

はじめまして青鯱ママと申します。

このサイトでは、日々の暮らしの中での気づきや、皆さんと共有したい東海3県の穴場兼お得情報を

探究心をもって(頑張って)表現するWebサイトです。

ちなみに、ITリテラシーはほぼゼロなため、自分への挑戦ということで、たくさんの物事に焦点を当てながら書き綴っていきたいと思っております。

それはそれは、どうぞお手柔らかによろしくお願いいたします。

Ao-Shachi-mama.